◇歴史ノート 周王朝の滅亡
■・周王朝(しゅうおうちょう) (紀元前1046年~紀元前221年)
・周は、殷王朝の従属国でしたが、周の「武王」(ぶおう)が、紀元前1046年に易姓革命(牧野の戦い)を起こし、殷王朝の暴君「紂王」(ちゅうおう)を倒して開いた王朝です。
・周王朝は、西周時代(前1046年~前770年)と東周時代(前771年~前221年)に区分されます。
・都は、西安近郊の鎬京(こうけい)で、一族や功臣(こうしん)を諸侯(しょこう)として、地方の人民と税を支配させ、周王には貢納と従軍の義務を負わせる主従関係の「封建制度」(ほうけんせいど)をつくった王朝です。
・周の12代王「幽王」(ゆうおう)は、大地震が起こり、涇水(けいすい)・渭水(いすい)・洛水(らくすい)の水が涸れてしまう大事件が起きたが、絶世の美女「褒姒」(ほうじ)の虜(とりこ)となり政治を怠っていた。
・褒姒(ほうじ)を溺愛した幽王は、申皇后(しんこうごう)が産んだ太子「宜臼」(ぎきゅう)を廃嫡(ハイチャク)し、褒姒(ほうじ)を正室とし、その子「伯服」(はくふく)を太子とした。
・このことから申皇后の父である申侯(しんこう)は怒り、申侯は紀元前771年犬戎(けんじゅう)(異民族)を伴い、都を鎬京へ攻め込んだ。
・幽王は、急いで烽火(のろし)を上げたが周の諸侯たちは集まらなかった。
・幽王と褒姒その子「伯服」は逃げ延びたが「驪山」(りざん)で捕まり犬戎に殺された。
・褒姒(ほうじ)は、犬戎に連れ去られ、その後どうなったのかは解らない。
・都の鎬京は、犬戎に荒らされて炎上し王朝建国以来、約270年で西周の時代は終わった。この事件を「申候の反乱」(しんこうのらん)という。
・その後、甲皇后の子「宜臼」(ぎきゅう)が、都を東の洛邑(らくゆう)に移し「平王」(へいおう)として即位した。
・この出来事を「周の東遷」(とうせん)といい、以後「東周時代」という。
■・春秋戦国時代 (しゅんじゅうせんごくじだい)
・東周は以前のような王朝としての力を失いて弱体化し地方の有力諸侯達がお互い争いを始めた。
・この混乱と争いの時代を中国の「春秋戦国時代」といい、約500年間続きます。
・紀元前221年、この混乱と争いを終わらせて中国を統一したのが「秦の始皇帝」(しこうてい)でした。
■・周の武王(ぶおう) (周の初代王)
・武王は、紀元前1046年に「牧野の戦い」(ぼくやたたかい)を起こして、殷王朝を倒し周を建国した歴史的重要人物です。
・父の文王が、殷に臣従していた時代に、武王は周で生まれます。
・父の文王は、仁徳に優れ、多くの有能な人材を登用し周の国力を高めました。
・父文王の死後「武王」は、その意志を継ぎ、殷の暴君である「紂王」に対する反乱を起こして周王朝を建国します。
■【牧野の戦い】(ぼくやのたたかい)
・武王の有名な戦いは牧野の戦いです。
・この戦いは易姓革命で、殷の「紂王」に対して行った戦いです。
・周軍は約5万の兵力、一方紂王軍は70万の大軍です。
・紂王軍の多くは奴隷兵であり、彼らは紂王の圧政に対して反感を抱いていたため、戦が始まると、奴隷兵たちは周軍に寝返り、周軍が大勝利を収めた戦いでした。
●【理想の王「武王」】
・武王は、周王朝を築いた後、功臣に土地と人民を与え「封建制度」を確立する。
・さらに周の政治体制を整え、国の安定を図りましたが、即位からわずか3年後に病に倒れ、幼い子供の「成王」にその位を譲ります。
・武王の死後は、幼い子供の「成王」を支えて、功臣の「呂尚や周公旦」が、武王の遺志をつぎ、理想的な国家作りを目指します。
・その後に続く、周王朝は「天下泰平の黄金時代」と言われ、40年にわたり刑罰を用いることがなかった時代と言われていました。
・孔子は、この周王朝を理想国家として「戦国時代の諸侯」に説きまわり、理想的な人物として「周公旦」の人格を弟子達に教えます。
・ここの武王の治世は、孔子の儒教において理想的な時代とされています。
・中国では、父の文王と共に武王は、中国の「聖王」として崇められている君主です。
■・周の幽王が烽火を上げたのに周の諸侯達は、なぜ集まらなかった。

【笑わない美女褒姒(ほうじ)】
・褒姒は美しい女であったが、笑うことはなかった。
・幽王は、美しい褒姒が笑えば、なお美しいだろうと思い手をつくし褒姒を笑わせようとしたが、彼女が笑うことはなかった。
・幽王は、外敵がせまれば、烽火(のろし)を持ってこれを知らせる方法を取っていたが、あるとき幽王は、たわむれで烽火をあげた。
・烽火を見た諸侯達は息を切らせてやってきたが、来てみれば敵の姿が見えない。
・呆然(あぜん)としている諸侯達を見て「褒姒」は、はじめて笑った。
・これを、見た幽王は、褒姒を笑わせるために烽火を上げるようになった。
・諸侯達は、たびたび幽王に騙されたので、烽火を上げても来なくなってしまったと
いうこと。
・中国の思想家「老子」が最も尊敬した人物「周公旦」について

■・周公旦(しゅうこうたん)は、中国古代の政治家、軍事家、思想家であり、周王朝の創設に大きく貢献した人物です。
・公旦は、周文王の第4子であり、周武王の弟として知られています。
・公旦は、周王朝の初期において、特に周武王とその子である周成王(せいおう)の治世において重要な役割を果たした人物です。
【周公旦の業績】
・周公旦は、周武王が殷王朝を滅ぼした後、彼の死去に伴い、幼い周成王を補佐するために政権を握りました。
・彼は、周成王が成長するまでの間、実質的な周王朝の権力を持ち、国家の安定と発展に尽力します。
・成王が成人すると、その権力を成王に戻しました。
・周公旦の主な業績には以下のようなものがあります。
①・不安定な政権を安定化させたこと
・公旦は、周成王が幼少であったため、彼の代わりに政務を執り行い、内外の反乱を鎮圧し、周王朝の権威を確立します。
②・周の礼楽制度を確立する。
・公旦は、周王朝の「礼楽(れいがく)」を整備し、文化的な基盤を築いた。
※礼楽思想とは、正しい行いと正しい音楽が相応するという思想。
・正しい音楽が響くと、世の中は平和に秩序正しく維持され。
・乱れた音楽が聞こえると、世の中も乱れ国が滅びると言われる。
・そのため、「正しい行いとは何か」をきめてそれを制度化した。
・これにより、周公旦は儒教の先駆者としても評価されています。
・孔子(こうし)は、彼を非常に尊敬し、周公旦の礼の教えを重視しました。
③・周の都を鎬京から中原の洛邑(らくゆう)に移した。
・公旦は、洛邑(現在の洛陽)を新たな都として整備し周王朝の都とします。
・洛邑は中原の中央に位置し、これにより周の支配地域を拡大し経済や文化の発展を促進します。
④・公旦は、天命の思想を強調し、周王朝の正当性を主張した。
・彼は、周が殷を滅ぼしたのは天の意志であり、周が新たな秩序を築く責任があると考えていました。この思想は、後の中国の政治哲学に大きな影響を与えます。
⑤・多くの若者たちの教育に力を入れた。
・公旦は、教育にも力を入れ、後世に多くの人材を育てました。
・彼の教えは、孔子の儒教の基礎となり、後の中国社会における倫理観や政治観に深く根付くこととなります。
【まとめ】
・周公旦は、周王朝の創設とその後の発展において中心的な役割を果たした偉大な人物です。
・彼の政治的手腕、文化的貢献、そして思想は、後の中国の歴史においても重要な位置を占めています。
・彼の業績は、周王朝の繁栄を支え、その後の儒教の発展にも寄与しました。
2024/12(記) Ouxito