フィリピン情報   「★フィリピンの宗教」




■信仰深い人々
国民の約90%はキリスト教徒で、フィリピンはアジア最大のキリスト教国である。
ローマ・カトリック教会が約85%、他に福音派(エヴァンジェリカル)や
新興宗教イグレシアなどのキリスト教徒がいる。

■キリスト教の伝来
1521年にマゼラン率いるスペイン軍が襲来しマゼランは原住民にスペイン王への服従と
カトリック教への改宗を求めた。
その後300年間の植民地時代にフイリピン各地にカトリック教会を建てカトリックの布教を
行いカトリック教を浸透させた。
独立した現在も人々はこの宗教を信仰している。

■生活に密着している宗教
日曜日の礼拝日には人々は教会に行く。教会はいつも満員、タガログ語や英語での説話を聞く、
教会に入れず外で参加する人も多い。
日常も教会の前を通る時は十字架をきって通る若者達、結婚式・葬儀・願い事等など何でもか
んでも教会である。
なぜ、こんなに熱心なのか私はいつも不思議に思っている。

こんな風なので、イエスの誕生日であるクリスマスは大変である。
人々はこの日のために1年の全てがあるようで、クリスマスの準備は9月頃からイルミネーション
が灯されたり、クリスマスイベントは仕事よりも優先したりするなど、非常に熱心にクリスマスに
取り組んでいる。

キリスト教を熱心に信仰する国民の祝祭日と記念日は、キリスト教関係の休日が非常に多いのも
よく分かる。いつも何らかの宗教行事が行われている。
特に、3月から4月にかけて行われる「聖週間の時期」には会社や公共施設、交通機関などが全て
休業するという信仰心旺盛な国なのである。



■キリスト教の何を信仰しているのか

フィリピンの教会に行って、いつも感じることは
聖母マリアの像に花束が多く献納されている。
この国は「マリア信仰」の国のようである。

教会に行ってマリア様に願うと、希望が叶うと
思っている人々が多いようである。
苦しい生活が多く、慈愛に満ちたマリア様に願いを
込めて救いを求めているのかも知れません。

このような文化がフイリピン人の価値観を形成して
フィリピン独自の宗教文化を根付かせている。
その為、人々には寛容さがあり、
特に女性は優しい人が多い。

■フィリピンのイスラム教徒
国民的な休日の中にイスラム教の祝日(ラマダン)が休日としてある。
この国は、宗教の自由が確立している。
現在イスラム教徒は、ミンダナオ島に多く島民の2割以上がイスラム教徒である。

実はフィリピンは、キリスト教よりイスラム教の方が歴史が古い。
1450年代にはミンダナオ島は「ボルネオのイスラムスールー王国」の一部であった。
1500年ごろに「マラッカイスラム教国」が誕生し、東南アジアの貿易ルートの拠点の一つは
ミンダナオ島のダバオであり、このためミンダナオ島民にイスラム教が広がったと思われる。
その後、スペインがキリスト教の布教に努めたが、すでにイスラム化していたミンダナオ島民を
キリスト教にすることはできなかったようである。


 
 イサベラ市のモスク

 ミンダナオ島のイスラム教分布図⇒



■フィリピン最大のイベント「シヌログ祭り」
毎年、1月にセブで行われるビッグ・イベントである「シヌログ祭り」は、
「サント・ニーニョ」を祝うためのお祭りである。
世界中から観光客も押し寄せ約400万人が参加する大イベント。
セブ市内は、人々で溢れかえり、交通機関もストップするほどの騒ぎで、様々なイベントが9日間に
渡って繰り広げられ、祈りと行進が行われている。


■サント・ニーニョとは(サント「聖」、ニーニョ「少年」)
つまり幼少のキリストである。
マゼランがセブに上陸した際、当地の王にニーニョ像を授けたものが由来です。
この像は市内最古のサント・ニーニョ教会に安置されているがコピーのニーニョ像も
各地に祭られている。
像は、精霊信仰的な面を持ち、強力な呪力と様々な奇跡を起こすと信じられている。
セブ島に住んでいる人々は、この幼きイエスが願いを叶えてくれると信じていて
セブ島にある大半の教会や多くの家庭でニーニョ像が数多く祭られている。

  聖「サント・ニーニョ像」

  ←「シヌログ祭り」 

■私は無宗教で、特に信仰している宗教もないが

しかし、信仰心のある人々に対しては、理解もあり敬意も持っている。
フイリピンでは日々の生活の中で、宗教がいたるところに身近に存在していた。
フィリピンは、ローマ・カトリックの思想のもとで離婚は出来ませんし、浮気して妻から訴えら
れたら刑務所行きです。
10代で妊娠しても子供を下ろすことはできません。
街で10代の少女が幼い子供を連れて歩いている姿を見かけることも多いです。
少女の家族全員で子供を育てているようです。

フィリピンでは、宗教が強制されているわけではありませんから無宗教であること自体は全く
問題はありませんが、信心深い人々を見ていると日本人が失ったものを沢山見ることも多く、
日本では感じなかった宗教の存在感を強く感じる毎日であった。

2017/05/17 (記)   

  






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