ダバオ (日系人が暮らした町) 

ドリアンの店

★マニラから 国内線双発機で約2時間乗るとミンダナオ島の
 ダバオに着く。この町は、戦前日本人が「マニラ麻」の栽培
 で多く住んでいた町である。
 フィリピンのバギオ・マニラにも多く日本人は居たが、
 戦後は、その子孫達の姿を見ることは少ない。しかし、
 ここダバオでは、多くの日系人(子孫)達に会うことができる

★ダバオ市について
ダバオ

★ダバオ市
 英語名: Davao City、タガログ語: Lungsod ng Dabaw、
 セブアノ語: Dakbayan sa Dabaw)
 フィリピン南部ミンダナオ島の南部に位置する。
 マニラ、セブ次ぐフィリピン第3位の都市でもある。
 人口は約153万人。(2014年)
 国際空港と国際港を持ち、フィリピン南部の政治・経済・
 文化の中心地でもある。

★気候
 気温は20度から32度の間で安定している。
 年間の平均降水量は2,000 mm 特に雨季や乾季の季節はない
 太平洋から風は、西側の山脈で守られており、
 気候は、年間を通し変化が少なく暮らしやすい。
 
★この町は、
 台風も少なく、市街の道路や橋なども整備が行き届き、
 ゴミもなく、清潔感のある町です。
 高いビルの建物はほとんどありません。
 治安があり、住みやすい町として知られています。

 その、噂どおり空港からHOTELまてタクシーに乗ったが
 ボラレルこともなく、メーター運賃でチップを取られる
 こともなかった。
 フィリピンでは、珍しいことである。
 戦前の日本人の環境がそうさせているのかもしれない。
 中国系や韓国系の人々も少なく、フィリピン人中心の
 社会である。 
 フィリピンに住むなら「ダバオ」である。

★日系人とダバオ 日本人の町 -ミンタル- 

日系人

★20世紀の初め日本人の太田恭三郎は、沖縄県出身の大城孝蔵
 とともに、農園と工場をあわせた「太田興業株式会社」を
 設立し、アバカ(マニラ麻)とココナツのプランテーション
 をこの地で作り上げ、事業に成功した。

-成功の理由は-
 ①勤勉な日本人労働者達を使ったことと
 ②当時「マニラ麻」が船舶用のロープの原料として飛ぶよう
  に売れこと。
 ③日本人労働者達とは、当時フィリピンにはマニラとバギオ
  を結ぶ高原道路「ベンゲット道路」建設に多くの日本人達
  が従事していた。 
  過酷な工事に疲労困憊した彼らを太田は、ダバオに誘い
  農園で働かせた。

 ④事業の成功は、良質な労働力を確保したことと、時代の波
  にあった製品を生産したことである。
  1938年にはダバオには、1万8千人の日本人が住んでいた
  と記録されている。

★-戦時中- 
  フィリピンミンダナオ島での米軍との戦いでは、日本人街
  「ミンタル」周辺が激しい最激戦地であった。
  敗戦が迫ると、日本軍と民間人は山岳部に退却し山中を
  彷徨した。しかし、逃亡中戦闘やゲリラの襲撃、病気や
  飢餓で兵士・民間人併せて数万人が死亡したと記録されて
  いる。

★-戦後-
  戦後、生き残った日本人移民は、フイリピン人の反日感情
  を恐れ、日本人である証拠を消して、フィリピン人として
  長い間ひっそりと暮らしていた。
  そこには、長い期間悲惨な状況下で生活していた
  「日系人達の生活」があった。

★ダバオの見どころ

-アポ山-
アポ山

-サマル島-
サマル島

-ダバオ博物館-
ダバオ博物館

-ダバオの人々-
思い出

2016/04/ (記) 

  






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