◇歴史ノート 黄河文明とは
■・黄河文明とは
・中国の黄河中流域と下流域では、紀元前6000年~前2000年の新石器時代に農耕社会が誕生した。
・やがて紀元前2070年~紀元前256年にかけて、夏(か)、殷(いん)(商)、周(しゅう)の各王朝が誕生し国家体制がつくられた。
・この黄河文明は、中華民族の発祥の基であるだけでなく、エジプト、メソポタミア、インダス川文明と並ぶ世界四大文明の一つです。
■・文明の歴史的背景
・黄河の中下流域は肥沃な黄土地帯で、アワ・キビなどが栽培され世界で最も早く農耕社会が出現した場所です。
・前4000年頃、黄河中流の「半波遺跡」(はんぱ)では、農民達が氏族集落を作り、縦穴住居に住み、磨製石器や彩陶(さいとう)の土器を使い、アワ・キビを栽培し、豚や犬などの家畜を飼って農耕社会を行っていた形跡が発見される。
・この時代の文化を仰韶文化時代(ヤンシャオ)といいます。
・前2300年頃の黄河下流の「竜山遺跡」(りゅうざん)によると、村落規模も拡大し高度な黒陶(こくとう) 土器や青銅器を使用し、牛や馬の飼育もなされていたようです。
・この時代の文化を竜山文化時代(ロンシャン)といいます。
◇歴史ノート 国家の誕生
■・中国では今は「夏王朝」が最初の王朝と考えられています。その後、殷(商)王朝と周王朝が続きます。
・この黄河中流域は、政治、経済、文化の中心地で、複雑な社会構造と国家体制が出現しました場所です。
1・大集落の形成
・黄河中流域の集落は、大集落=大邑(だいゆう)と、それにしたがう小集落=小邑(しょうゆう)を形成していった。この大邑からは、指導者の族長が生まれる。
2・夏王朝(かおうちょう)
・1959年、河南省の「二里頭遺跡」(にりとう)が発見され、ここが司馬遷の『史記』に書かれていた中国最古の幻の王朝「夏王朝」の首都であることが確認された。
・この遺跡からは大規模な建物や陶器や玉器などの豊富な文化遺物が発見され、当時の生産性の高さと複雑な国家構造が明らかになった。
・夏王朝 = 紀元前2070 年頃~紀元前 1600 年頃まで(約400年間の王朝)
3・殷王朝(いんおうちょう)
・1950年、河南省安陽(あんよう)市で、ながらく伝説上の存在と見なされていた殷王朝の王墓が発見された。
・王墓からは、大量の青銅器や甲骨文字(こうこつもじ)、玉石器類や人骨が出土された。
・甲骨文字の解読から殷王朝は強大な軍事国家で、王は甲骨を用いた占いによる神権政治を行い、多数の奴隷を私有していた国家であることが解明された。
・殷王朝 = 商(しょう)王朝ともいう。紀元前16世紀頃~紀元前11世紀頃まで(約500年間の王朝)
4・周王朝(しゅうおうちょう)
・周王朝は、古代中国の殷王朝の従属国であったが、周の「武王」は、紀元前1046年に易姓革命戦争(牧野の戦い)を起こし殷王朝を倒して周王朝を開いた。
・武王は都を鎬京(こうけい)に置き、一族や功臣を諸侯(しょこう)として、地方の人民と税を支配させ、周王には貢納と従軍の義務を負わせる主従関係の「封建制度」をつくった。
・周王朝 = 西周時代(前1046年~前770年)と東周時代(前771年~前221年)に区分される。
・東周時代(都=洛邑)には、周王朝は弱体化して地方の有力諸侯が争う「春秋戦国時代」となる。
・春秋戦国時代(しゅんじゅうせんごく) = 秦の始皇帝が全国統一するまでの約500年間続く乱世の時代。
まとめ

・「黄河」は中国の「母なる河」であり、全長約5,464㎞で中国で2番目に長い川です。
・その流域には、高原から平野まで多様な地理環境があり、農業の発展に適している一方、度重なる洪水により「中華民族の悲哀」とも呼ばれる氾濫を繰り返す暴れる大河です。
・ここで生まれた「黄河文明」は、中華民族の基礎であるだけでなく、多くの分野で日本をはじめ世界文明に大きな影響を与えました。
・黄河流域における農業技術では、キビや小麦の栽培は継続的に進歩し、人口の増加と社会的分化を促進しました。また、青銅の精錬技術や陶器の生産も高度なレベルに達していた。
・黄河文明は漢字の発祥の地であり、初期の甲骨碑文と青銅碑文は、その後の漢字の発展の基礎を築きます。
・周王朝の封建制度の確立と文化の繁栄は『歌書』や『易経』など、多くの重要な哲学的、文学的作品が生み出され、東周時期の混乱期では、儒教、道教などの諸学派の誕生で古代中国哲学の基礎を形成しました。
2024/12(記) Ouxito