ジョン・バチェラー (John Batchelor)

JohnBG3.jpg



・日本人で、ジョン・バチェラー博士のことを知っている人は少ないと思う。
・英国のサセックス州アクフィールド生まれの宣教師です。

・1854年3月20日~1944年4月2日(91歳で没す)



何をした人か

・といえば、24歳の1877年に香港から静養のために函館に来て、日本の先住民族アイヌの人たちが、悲惨な生活と病に苦しんでいることを知り、さらに日本人の差別や偏見に満ちたアイヌ観に衝撃を受けて、アイヌの人々を助けたイギリス人です。

悲惨なアイヌの暮らし

・明治に入り新政府は、アイヌの人々が昔から暮らす「蝦夷地を北海道」と改め「アイヌの戸籍法」をつくります。
・アイヌの伝統的な文化であった「亡くなった人の家を燃やすこと(カリマンテ)や「女性の入れ墨、男性のイヤリング」などの風俗を禁止し、さらに日本語と日本文字を覚えるよう強要して、アイヌ文化を否定する政策を始めました。

・アイヌ文化には、なかった名字をつけるようアイヌの人に強制したり、名前も和人風につけるよう指示します。

・ジョン・バチェラーが、静養のため函館に来た明治10年頃には、アイヌの人たちが住んでいた北海道のすべての土地を、和人(わじん)の土地と勝手に決めて、アイヌの人々が持っている家や農地まで奪い、明治政府の管理地にしています。

・土地もうばわれ山野で狩りをしたり、山粟や木の実を取ることもアイヌの人々は自由に出来なくなりました。

・アイヌ民族が独自の暮らしと文化をつくり上げてきた蝦夷地の大地が、いまは和人の所有物とされて、アイヌの人々は悲惨な暮らしをしていました。

*蝦夷地(えぞち)=今の北海道のこと
*悲惨(ひさん)=みじめなありさま
*衝撃(しょうげき)=ショックのこと
*和人(わじん)=日本人のこと

*カリマンテ= (死者に家を持たせる儀式のこと。)

ジョン・バチェラーとは

・ジョン・バチェラーは、1854年3月20日、イギリスのサセックス郡アクフィールド村で、11人兄弟の6番目として生まれました。

・両親は仕立屋を営んでいました。彼が幼いとき聞いたインド宣教師の説教に感激して、東洋伝道の志を持ち、その後イギリス教会に入会します。
・両親に教えられていた「弱い者を守る」という彼の信条からの入会でした。

・1876年、香港にあるセント・ポール学院の宣教師養成校に入学します。
・しかし香港の蒸し暑い気候風土が身体に合わず、マラリアを患って体調を崩し、故郷と気候風土が似ている日本の函館に転地療養を進められます。
・1877年の5月1日、函館に着きました。23歳の若い宣教師の卵です。

・函館で暮らすうち、悲惨な暮らしをするアイヌの人々をみて、若き宣教師バチェラーは、アイヌ人の救済と伝導が自分の使命だと思い始めます。

・バチェラーは、アイヌの人々をなんとか救おうと決意し、英国のイギリス教会宣教会(CMS)に願い出て、函館での伝導とアイヌの救済活動を認めてもらいます。

・活動を認められた彼は、さっそく日本語とアイヌ語の勉強を始めました。
・日本に来て半年、片言の日本語を使えるようになったバチェラーは、函館の街でアイヌの青年たちと出会います。

・青年たちは平取というアイヌの村に住んでおり、熊狩りをした肉を函館まで売りに来たといいます。

・当時アイヌの部落は、北海道全域にありました。(上図参照)
・特に胆振・日高地方には多くいて、平取でも多くのアイヌ人たちが住んでいて、まだアイヌの生活風習が保たれていることを知ります。

・バチェラーは、すっかり彼らと打ち解けて平取を訪れることを約束しました。

・1879年、26歳の時、日高の平取アイヌ部落を訪問して、アイヌの長老ペンリウクの家に3ヶ月滞在してアイヌ語の学習やアイヌの人々の暮らしを学習をします。

・その後、函館で結婚した妻「ルイザ・アンザレス」と共に、北海道で約64年間、アイヌの人々への伝導と救済に生涯をかけました。

*平取(ひらとり)=今の平取町
*胆振・日高(いぶり・ひだか)=今の室蘭~襟裳岬地域

*部落(ぶらく)=集落のこと、アイヌ語ではコタン



バチェラーのアイヌ人救済活動

・バチェラーは、良心的な和人や伝道協会からの募金をもとにして、1888年札幌に無料のアイヌの小学校「愛隣学校」を設立し、アイヌ語の読み書きをローマ字で子供たちに教えます。

・さらに、1892年アイヌ人が無料で治療できるようにと「アイヌ専門病院」を設立しました。

・当時アイヌの人たちは、狩猟も禁止され、食事も米やイモに切り替えなければなりませんでした。
・それに伴って病気やストレスが増え、酒でまぎらわせる者も多くいて体を悪くする者が多かったのです。

・1931年「バチェラー学園後援会」がつくられ、日高の平取に「アイヌの保育園」も建てられました。

・1914年には「アイヌ教化団」が組織され、中等学校以上の教育を受けさせるため「バチュラー学園」を創設して、生活費や学費を援助し中等学校以上の進学をさせるためアイヌの子供たちを札幌に集め寄宿舎を建設して教育をします。

・この学校は、1940年に閉館されるまで開校されていて、この学校から教師や獣医、無線技士など様々な職業に、アイヌ人が就いて羽ばたいていきました。

*愛隣学校(あいりんがっこう)=日本語がわからない子供を教育した小学校

バチェラーの伝導活動

・当時の北海道はアイヌ語の方言が違う、幾つかのアイヌ地域がありました。
・まだ未開の原野も多くあり、道もない原野を彼はそれでも進み、熱心に伝導活動を進めました。
・バチェラーは、北の集落・南の集落を問わず、伊達・白老・釧路・厚岸・網走などのコタンを訪れて、アイヌ語を使い伝道して歩き回りました。

・最初にバチェラー神父を見て驚いたアイヌの人たちも、やさしくみんなにとけこもうとするバチェラー神父の姿を見て、しだいに親しみを感じるようになります。

・こうしてアイヌの人たちと交流を深めていきました。

・やがて、この熱心なバチェラー神父をしたって、キリスト教の信者もふえていきます。
・1903年には、北海道の聖公会信徒2,895人中、アイヌ人信徒が2,595人でした。


バチェラーと妻ルイザの間には子供がいなかったためか、夫婦は自宅の別棟に「アイヌ・ガールズ・ホーム」を建設して、身寄りのないアイヌの女子児童を引き取ります。
・その後その中の一人、向井八重子という少女を養女に迎えました。
・当時、異国人と養子縁組は例のないことでした。

・八重子は、明治17年に有珠のアイヌコタンで向井富蔵の次女として生まれました。11歳で父を亡くした八重子は、子どものいなかったバチラー夫妻の養女となります。
・イギリスに渡り、いろいろな経験をしたのち日本に帰国して、ふるさとの有珠でキリスト教の布教に努めた人です。

バチェラー博士の貢献

・バチェラーは、アイヌ語訳の聖書の翻訳やアイヌ語の言語学的研究と民俗学的研究に多くの業績を残しました。
・アイヌに関する多くの著作を発表して、アイヌ民族のことを広く世界に紹介した人物です。

・35歳の時、それまで書き留めた約2万のアイヌ語をローマ字で表し、アイヌ語と日本語と英語に翻訳した「蝦和英三対辞書」というアイヌ語辞典を出版しました。世界初のアイヌ語辞典でした。
・このような業績から、バチェラーは、日本のアイヌ文化研究の重要な研究者の一人であるといわれています。

*知里幸恵の弟で、北大教授の「知里真志保」は、バチェラーの文法書や辞書が役に立たないものと批判していますが、私はこれは言い過ぎだと思っています。

*当時の蝦夷アイヌ語には、いろいろな方言があり、アイヌ語→英語→日本語の訳にも大変困難な時代でした。

・そんな中で、多くのアイヌ語を日本語に翻訳し残した業績は、賞賛に値すると私は考えていますし、何よりもアイヌ文化を記録に残したことを忘れてはならないと思っています。



*業績(ぎょうせき)=なしとげた仕事
*蝦和英三対辞書(かわえいさんたいじしょ)

・1923年にバチェラーは70歳になり、決まりにより宣教師を退職しました。
・しかし、英国に帰国せず、札幌に留まりアイヌ人への教育活動を続けました。

・1936年4月6日、夫のアイヌ教化の熱情を暖かく見守ってきた妻「ルイザ」は天国へと旅立ちました。

・当時の北海タイムスは「異郷日本に咲ける英国婦道の亀鑑全生涯をアイヌ教化にささげ、バチラー博士夫人昇天」という大見出しで賛嘆報道しました。

・第二次世界大戦直前の1941年11月19日、愛妻を亡くしたバチェラーは、英国と日本の戦争のため「敵性外国人」として一人寂しく北海道を去ります。

・アイヌ人の生活改善・学校・病院の設立に尽力し「アイヌの父」として敬愛されたイギリス人宣教師、ジョン・バチェラー博士は、郷里英国の生家で逝去しました。
・1944年(昭和19年)4月2日、91歳でした。




  




78 0 1