◇歴史ノート 夏王朝の滅亡
■・長い間、中国では「周王朝」が中国最古の王朝と考えられていた。
・司馬遷の『史記』の一章には、五帝を経て最古の王朝とされる「夏王朝」と、その後の「殷王朝」・「周王朝」と「春秋五覇」までが書かれている。
・「夏王朝」も「殷王朝」もその王朝の存在を確認する遺跡が見つかっていなく、幻の「夏王朝」、伝説の「殷王朝」と言われていた。
・1959年の戦後、河南省の洛陽平原(らくようへいげ)の二里頭村(にりとうむら)から古い土器が出土した。
・中国社会科学院考古研究所は、二里頭村の試掘を行った。
・その結果、大規模な遺跡が発見された。
・その後の発掘でも、周辺の五つの村にまたがって遺跡が分布していることがわかった。
・遺跡からは、陶器を焼いた窯や井戸の跡、40基以上の墓や大量の陶器、石器、骨器や青銅器、玉器など豊富な文化遺物が発見された。
・年代測定で、この遺跡は「殷墟」遺跡より古く、規模も含めてここが「幻の夏王朝」の遺跡であると確認された。
・中国4000年の歴史の中で、古代中国の幻の夏王朝や伝説の殷王朝の遺跡が発見されたのは、戦後の現代に入ってからです。驚きです。
■・夏王朝とは
・夏王朝は、紀元前2070年頃に成立し、紀元前1600年頃に殷(商)王朝によって滅ぼされた古代王朝。
・『史記』によれば、初代の王は黄河治水の英雄として知られる「禹(う)」で、その後13代の王朝が471年間続いたと記されている。
・夏王朝最後の王は、14代目の「桀王(けつおう)」で、彼は徳を修めず、官僚を殺傷するなどの行為を繰り返し暴虐な暴君政治統治を行って民衆の不満を招いていた。
・北にある(殷)商部族の首領である「湯王(とうおう)」は、桀王の圧政から民衆を解放するとして挙兵した。
・この戦いは、商(殷)の興隆と夏の終焉を象徴するものとなった。
・湯王が桀王を南方に追放し、夏王朝を滅ぼすことに成功したのは紀元前1600年頃です。
・夏王朝の滅亡を通じて、殷(商)王朝が台頭し、古代中国の歴史は新たな時代を迎える。
・この出来事は、中国歴史における「王朝の交代」の理論「易姓革命」として大きな影響を残しました。
※「易姓革命」(えきせいかくめい)
・易姓革命とは、古代中国における王朝交代の理論です。
・暴虐な君主が民衆の信任を失った場合、天の意志によって新しい支配者がかわると考えました。
・儒教では、王朝の支配者の姓が変わること(易姓)と、天の意志が変わること(革命)を意味します。
■・二里頭遺跡からの発掘は、夏王朝の文化や社会構造を明らかにする重要な手がかりとなっています。
・現代は、まだ遺物の分析段階ですが、宮殿跡は3号宮殿まで発見されています。
・その規模は大きく、大門を始め北門と周囲の城壁や二輪の馬車が走った道幅10m以上の縦横に走る道など計画的につくられたことがわかります。
・政治的な統制方法は、王は宮殿の広場に諸侯を集め、貴重な青銅器の器を持って政(まつりごと)を行っていたようです。
・『史記』によると、
・初代王の「禹」は東方に巡狩して会稽で崩じたが、10年間政治を任せていた「益」にその位を禅譲(ぜんじょう)した。
・しかし「益王」は、三年間の喪があけるとその位を、禹の子の「啓」に位を譲った。
・諸侯は「啓」のもとに集まり、「啓王(けいおう)」は天子の位についたと書いてある。
・この時から天子の位は『禅譲』ではなく『世襲(せしゅう)』に変わる。「啓王」は世襲制の最初の皇帝です。
※『禅譲』とは=天子の位を集団の中の優れた有徳者に譲ることで、古代中国の五帝時代からの方法。
※『世襲』とは=天子の位を天子の血族関係者から選ぶという方法 (日本の天皇制もおなじです)
■・夏王朝の滅亡
・約500年続いた「夏王朝」は、やがて滅亡の時期を迎える。
・最後の王、「桀王」は、美女の「妺嬉ばっき)」を非常に愛し、彼女のために贅沢な宮殿を建設し、豪華な宴を催し多くの資財を浪費した。
・また「妺嬉」は、王の政治にも強い影響を持ち「桀王」は、妺嬉の言葉に従い、彼女の意向を優先するあまり、国政が乱れに乱れたといわれています。
・民衆の生活を苦しめ、民衆の支持が失われ、政治は乱れて諸侯が離反しますが、「桀王」は武力で諸侯や民衆を抑圧しました。このことが夏王朝の滅亡を招きます。
・このように美女が王国を滅ぼす物語は、夏王朝だけでなく、その後に続く殷王朝の「妲己(だっき)」や周王朝の「褒姒(ほうじ)」・唐王朝の「楊貴妃(ようきし)」など共通点が沢山あります。
・世襲制によって選ばれた「桀王」の物語は、古代中国の歴史における権力の腐敗と滅亡を象徴するものとして、今なを多くの人々に語られています。
あとがき

・世界史の視点はいろいろあります。
・国がどう生まれて滅んだのかも大切な視点です。
・中国の古代王朝 「夏王朝」は、優れた指導者「禹王」によって生まれましたが、その後、暴君「桀王」で滅亡しました。
・その背景には、指導者である君主が「世襲制」で引き継がれて行ったことが考えられます。
・君主の後継者である皇太子は、幼いときから民衆とかけ離れた生活を送ります。
・そのため君主になっても、民衆のことは解らず政治を行う場合があります。
・中国古代王朝の夏・殷・周を始め、その後に続く王朝も「民衆の反乱」で滅んでいます。
・中国の神話世界の「五帝」時代は、指導者の権力はすべて「禅譲」によって引き継がれていますが、夏王朝の時代から権力の譲渡は「世襲制」となりました。
■・権力の譲渡の理論としては、中国では「易姓革命の思想」があります。
・この思想は、孟子などの儒教の学者によって理論化されました。
・暴虐な君主が人民の信任を失った場合、天の意志によって新しい支配者を選べるという思想です。
・例えば、夏王朝の暴君「桀王」を殷の「湯王」が倒したことや、殷の暴君「紂王」を周の「武王」が打倒したことが、易姓革命の典型的な例とされています。
■・易姓革命には、主に二つの形があります:
①禅譲(ぜんじょう) = 平和的に権力を移譲する方法
②放伐(ほうばつ) = 武力によって権力を奪取する方法。
・この二つの形式は、王朝交代の際に、どのように権力が移行するかを示しています。
・易姓革命の思想は、古代中国の政治思想において重要な位置を占めており、王朝の交代を「正当化」するための理論的基盤をのちの政権に提供します。
・近代ヨーロッパでは、フランス革命をつうじて啓蒙思想家による『社会契約論』が登場しています。
・西洋思想と東洋思想の違いはありますが、基本的には「神によって選ばれた者」ではなく、「民衆によって支持された者」が権力者になるというのが現代社会の権力譲渡の正論です。
2024/12(記) Ouxito