隠れキリシタンの島 - 鉄川 与助 -
【記録】
・鉄川与助は、明治12年(1879)現在の新上五島町で大工の家に生まれる。
・明治後半から昭和前半にかけて数多くのカトリック教会堂建築を設計・施工し50を越えるカトリック教会建築に関わる。
・幼いときから家業の大工を続けてきたが、22歳の頃に曽根教会の建設に関わりフランス人宣教師ペルー神父より
教会堂建築に必要なリブ・ヴォールト天井の架構や幾何学などを学んだことを契機に、教会堂建築と深く関わるようになる。
・以降、五島を始め九州を中心に多くの教会関係の建物を建設した。
・鉄川与助は、小学校しか出でおらず高等教育を受けることなく、
ほぼ独学ともいえる努力によって、高度な建築学を習得している。
・与助の向上心は、たくましく次々に新たな技術を習得したようである。
当時、先端技術であった鉄筋コンクリート構造のような高度な技術も習得した。
・自身の向上心と研鑽により、数多くの教会建築を始め、事務所、学校、寺院、住宅などその数は100ほどあり、彼自身で設計した教会堂の数も30以上ある。
・五島の青砂ヶ浦天主堂 ・頭ヶ島天主堂 ・田平天主堂 ・江上天主堂など、
鉄川与助が建設した教会堂は、重要文化財に指定されているものが多い。
・鉄川与助は、晩年は横浜で過ごし97歳で、その生涯を全うした。
仏教徒であった。
隠れキリシタンの島 -その歴史-
【記録】
・五島列島は、長崎港から西に100km東シナ海に浮かぶ大小140余りの島々が連なたる列島である。
・五島に人が住み着いたのは古く、旧石器時代や縄文・弥生時代の遺跡が多く発見されている。
・人口は現在、約7万人 主な産業は、漁業と観光である。
・自然豊かな地域で、景観にとみ「西海国立公園」に指定されている。
・島々には、小さな教会が多く点在していて「長崎の教会群とキリスト教関連遺産」として今、世界遺産への登録が進められている。
【五島のキリスト教史】
・16世紀、ザビエルをはじめイエズス会宣教師が九州で布教活動を始めた。
その後、九州各地にかなりキリスト教が浸透したが「島原の乱」が起き、
秀吉と江戸幕府によりキリシタン迫害が始まる。
その為多くの信徒は、信仰を棄教するが一部は潜伏キリシタンとなった。
・江戸時代中期に五島藩が五島に開拓民を募集し(寛政9年)外海から
108名が島内へ移住する。
その多くは、潜伏キリシタンであったと言われている。
・開拓民は、五島の山間部や陸路困難な奥まった小さな入り江などで生活を
始め小さな集落を作り、
隠れ住むよう生活して「密かにキリシタン信仰」を続けてきた。
・キリスト教の迫害は、明治時代初期まで続いたが、
「五島のキリシタン達」は、耐え隠れ信仰を守り抜いた。
・やがて明治政府によりキリスト教の信仰が認められると、
人々は次々と五島各地の開拓地に小さな聖堂(教会堂)を建て始めた。
・教会は小規模だが、現在100年以上の年月を経ている建物も見られる。
・五島は、現在でもカトリック教徒が比較的多い地域である。
人口の約10%以上がカトリック教で、その他の島民は仏教徒である。
2018/05/08 (記)
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