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・江戸中期始めの俳人です。
・伊賀国の出身で、俳句を「わび・さび」で示される幽玄と閑寂(ゆうげんとへいかん)の俳風に確立した俳人として知られている。

・芭蕉は後年、日本各地を旅して歌枕(昔、和歌の題材になっているもの)の場所を巡ぐり、多くの名俳句を残した漂白の俳人です。
・主な著書に『笈の小文』『更級紀行』『野ざらし紀行』『おくのほそ道』などがあります。

*『野ざらし紀行』         「東海道を上り、初めて文学的な旅をした紀行文」41歳
*『鹿島紀行  』(かしまきこう)  「鹿島の仏頂和尚を訪ねるた旅」         44歳
*『更級紀行  』(さらしなきこう)「信州更科へ名月を見る旅をした紀行文」     45歳
*『笈の小文  』(おののこぶみ)  「旅の道すがらの小記を集めたもの」       45歳
*『おくのほそ道』        「奥羽・北陸の各地を巡り多くの名句を残した」  46歳

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・『奥の細道』原文の題名は「おくのほそ道」
・松尾芭蕉の死後(51歳)、元禄15年(1702)に弟子たちにより出版された紀行本。

・日本における古典紀行文の代表的作品で、松尾芭蕉の著書の中でも最も高い評価を受けている作品です。

・元禄2年、芭蕉は歌枕の宝庫である陸奥(みちのく)への旅を決意する。
・元禄2年(1689)は、尊敬する西行法師500回忌に当たる年で、芭蕉は、西行法師の足跡を求め陸奥への危険な旅に出ることを決めたと言われている。

・元禄2年3月27日(新暦5月16日)、芭蕉は弟子の『河合曾良』を伴って、江戸深川の「採荼庵」を出発し、全行程約600里(2400キロメートル)、日数約150日間(約半年) の奥州・北陸各地を巡る「奥の細道」の旅をした。
・その後故郷の伊賀に行き、元禄4年(1691年)に江戸に戻った。

・『奥の細道』は、旧暦の8月21日、大垣に到着するまでの記録が書かれている。
『おくのほそ道』という表題は、当時の『陸奥』は細い道なき一本道が多く、そこからつけられた題と思う。

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・この『おくのほそ道』は、芭蕉の紀行文のなかでも、もっとも優れていて完成された作品として高く評価されている。

【・その理由は】
・当時の俳壇は、特権階級や富裕層の知的娯楽としての俳諧がもてあそばれていた。
・俳風は、滑稽の機知や華やかさ、笑いや楽しさを求める俳句が多かった。

・しかし芭蕉の俳句は、静寂の中の自然美や、李白・杜甫ら漢詩人の詩風、魂の救済など「心の世界」を詠み込んだ俳句でした。

・『奥の細道』は、自然や人生の探究が刻み込まれたきわめて芸術性・精神性の高い俳句と知られています。
・そのため芭蕉の俳句は、日本古典文学史上屈指の作品として位置づけられています。

・芭蕉は、旅を通じて俳諧を庶民にもわかりやすい「蕉風」と呼ばれる俳諧を広め、地方各地に多くの俳句愛好者の仲間を育てました。

・『奥の細道』は「月日は百代の過客にして…」という序文から始まり、芭蕉俳句の名文が数多く記されている作品です。ぜひ読んでください。






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【現代文訳】 
・月日は、過去から未来へ百代にもわたるほどの旅人であり、行く年来る年もまた同じような旅人である。
・舟の上に身を浮かべて一生を過ごし、馬をひきながら老いていく者も日々旅であって、旅を己のすみかとしている。
・古人も多く旅の途上で死んでいる。

・私もいつの年からか、片雲が風に誘われるように漂泊の思いがやまず、
・海浜をさまよい、去年の秋に隅田川のほとりのあばら屋に戻り、くもの巣を払って住み、
・やがて年も暮れ、年が明けたら立春の霞が立ちこめる空の下で白河の関を越えたいと願い、

・そぞろ神がとりついて私の心を狂わせ、道祖神の招きにあって取るものも手につかず、ももひきの破れをつくろい、笠のひもをつけかえて、
・足の三里に灸をすえているうちから、松島の月がまず気にかかって、すみかは人に譲りて、杉風の別宅に移る時に、

「草の戸も住み替わる代(よ)ぞひなの家」と面(おもて)八句を柱に掛けて置いた。


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【芭蕉その他の俳句】

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