■あなたは、神風特攻隊 (しんぷうとっこうたい) の戦争を知っていますか。



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■神風特攻隊((しんぷう とっこうたい)

■日本の敗戦日(1945/08/15)の10ヶ月前、1944年10月25日の朝、
・フイリピンのマバラカット飛行場から南のレイテ沖に向けて250㌔爆誕を抱えた零戦
「神風特攻隊」7機が飛び立った。
・南のサマール島沖で「レイテ開戦」が繰り広げられていた。そこに向かったのである。

・出陣した零戦は、高度1500㍍から45度の急降下で爆弾を抱え米海軍の護衛空母に向って突進
「護衛空母サンティとスワニー」は大破し「護衛空母セント・ローと巡洋艦1隻」がごう沈した。
これが「神風特攻隊」の始まりである。

・この成果を高く評価した大本営は、(日本軍の司令部)「神風特攻隊」を編成して、
 ゼブ島・台湾・鹿児島(知覧)に基地をつくり、敗戦までこの「肉弾作戦」を拡大し実行した。
・特攻隊員の多くは、20才前半の若者達である。

・この捨て身ともいえる「肉弾戦法」は、ミッドウェー海戦以降、敗退を続ける
 日本帝国海軍の混乱と無策・無能ぶりをしめしている。
 一体、誰が考えて実行した作戦なのだろうか。

■「特攻」考えて、指揮実行した人は「大西瀧治郎(海軍中将)」という軍人

■1944/10/19、
・フィリピンに着任した大西中将は、マニラの艦隊司令部に
・クラーク基地の司令「前田孝成大佐、庄司八郎少佐」と
 マバラカット基地の司令「山本栄中佐、中島正少佐」を呼び出し
「捨て身の特攻計画」を相談した。

・夕刻、マバラカット飛行場、第201海軍航空隊本部で、
・「玉井浅一中佐、猪口力平中佐、吉岡忠一中佐」らを招集し
 会議を開いた。

・大西は「米軍空母を1週間位使用不能にし作戦を成功させるため零戦に250キロ爆弾を抱かせて体当たりをやるほかに確実な攻撃法はない」と提案した。

玉井中佐は、飛行隊長の「指宿正信大尉、横山岳夫大尉」らと相談し
 体当たり攻撃の決意を大西に伝えた。

・名前も「神風特別攻撃隊(しんぷう とくべつこうげきたい)と名付け
 隊員を募集した。
・募集は、希望制であった。
「否」と書いた者は一人も居なく、全員が「熱望」で「超熱望」と書いた者もいたと云われている。

・若い隊員達も、戦局は悪化しており、正攻法を唱える余裕は無いことも知っていた。
・それほど日本軍は、追い詰められていたのである。

・やがて、この肉弾作戦が成功裏に終わると東京の軍令部に着任した大西は「神風特攻」作戦の責任者となり、作戦規模は拡大していった。

・作戦規模が拡大すると、特攻隊員の募集方法も「希望制は形式的」なものとなり
 命令により特攻隊員が任命された。(お前は死んで国に奉仕せよ)と云う命令である。

・特攻作戦は敗戦終了までに、航空機 2,483機(陸軍+海軍)・戦没者 3,690名となった。

■この特攻隊を生んだ太平洋戦争の背景



■20世紀前半は、英国を始めに欧州各国は世界に植民地をつくり、さらに領土獲得に争っていた。
・アジアでは、日本とタイ王国以外は、ほぼ白人達の植民地である。
・フィリピンも米国の植民地であった。(米西戦争で獲得)

・英国の産業革命から100年遅れた日本は、この白人たちの「帝国主義」手法を追い求めた。
・「日清戦争1894・日露戦争1904年」で大国に勝ち、手に入れた「朝鮮半島・台湾・満州」で
 植民地政策を進め資源を獲得し、さらに小国日本は、無謀にも中国大陸に進出したのである。

・1931年の満州事件から1945年の敗戦まで、足かけ15年も日本は「資源獲得戦争」を続けた
・そんな中、米国は日本への石油の輸出をとめた。(経済封鎖)

・1941/12/08 海軍は、米軍の真珠湾(ハワイ)を攻撃「太平洋戦争」が始まった。
・さらに、ボルネオの石油を求めて東南アジア地域まで進出した。
・日本は、無謀にも中国全域と米国・東南アジアまで戦闘範囲を広げ、
 1945/08/15の敗戦を迎えたのである。

その戦闘拡大の背景には、
・大国の清国やロシアと戦って勝った「日清戦争・日露戦争」の勝利があり
・13世紀の蒙古襲来のとき神風が吹き、神は日本を守ってくれた。
・日本は神に守られていると軍人も国民も盲信していた。

・日本の15年戦争は、日本が他国から侵入されて始まった戦争ではない
・欧米の帝国主義を模倣し、アジア諸国に資源を求めて進出した戦争である。
・神も守ってくれるはずはない。
・小さな国、日本なのに愚かにもエリート軍人・軍閥に扇動された戦争なのである。

■特攻隊の悲劇

■英霊にささげる「海行かば」

■「神風特攻」は、フィリピンの「マバラカット飛行場」から始まった。
・その後、多くの特攻機が、この基地から飛び立ち、戻らなかった。
・戦局が悪化すると、鹿児島の知覧基地からも多くの特攻機が「沖縄」に向かった。

・やがて「捨て身の特攻」は「特攻志願制ではなく、隊員は軍の命令で選ばれた」
「お前は死んで国に奉仕せよ」と言う命令である。
・命令をした将校達は、若い特攻隊員に「己も後から続くから」と説諭したといわれている。

・しかし、将校達は「特攻隊員」として、ほんとうにその後に続いたのだろうか。
・詳しい事は、わからないが「マバラカット特攻隊」については記録がある。

・大西中将は、敗戦の翌日、目黒で割腹自殺をしたが、計画を立案した将校達
 玉井中佐、猪口中佐、吉岡中佐、指宿大尉、横山大尉たちは、戦後も生き延びていた。

・「命を捨ててこいと」命令を下した者には、必ず責任が伴うものだが。
・特攻隊員は20才前半の若者達である。純粋に「救国精神」で飛び立った者も多いはずである。

にもかかわらず、命令を下したエリート軍人達は、戦後も生き延びている。

・このことを死んだ「特攻隊員」が知ったらどう思うだろうか。
裏切られた「特攻隊の悲劇」をみる。

・5年ほど前、わたしはパンガシナン州立大学アラミノス校で日本語を教えていた。
・マニラから戻るときは、いつもこの「マバラカット」を通るのである。
・「マバラカット」を通るたびに「特攻隊の悲劇」を思い、やるせない気持ちになった。

アラヤット山が見えると、その麓の平原が旧海軍の「マバラカット飛行場」である。
・いまは「夏草や兵どもの夢の跡」で、草一面の原野である。



2019/05/15 (記) Ouxito