「★カンボジアの歴史1」  

-東南アジアの古代文明 -   

扶南(フナン)王国の時代 (AD68年~550年)

・1~2世紀ころ、現在のカンボジアからベトナムのメコンデルタにかけて、扶南(フナン)という国が周囲の勢力をまとめて誕生していた。

・扶南(フナン)国家は、東南アジアで一番古い国家であるといわれている。

・中国の「晋書扶南伝」(しんしょふなんでん)には、この扶南(フナン)国のことが書かれてある。

・それによると東インドから、神から霊力のある弓矢を授かった男が船に乗ってやって来た。

・その男が、地域を治めていた女王と結婚して扶南(フナン)という国をつくった。



・王は「山の王」(プンナの王)と呼ばれ、メコンデルタに進出して農業を発展させ、海岸の町には、中国・インドの貿易船が立ち寄る港をつくって利益をあげた。

・城壁に囲まれた町に、王と住民が住み、住民は色黒で髪を巻き上げ、はだしで歩いている。

・銀食器で食事をし、細かな彫刻をほり、文字は中央アジアのものとよく似ていると書かれてある。

・フナン(扶南)は5世紀ころ最も栄えたが、6世紀メコン北部に出現した真臘(しんろう)によって、この国は滅ぼされた。

・その頃は、ベトナムでは「チャンバ王国」が誕生し、日本では「大和朝廷」の時代の話である。


■扶南(フナン)時代の遺跡には「プノム・ダ遺跡」がある。
・この遺跡から「ビシュヌ神」の石像が発見されている。
・ビシュヌ神は、ヒンズゥー教の神でありインドのヒンズゥー教が扶南(フナン)でも信仰されていたと思われる。

■2~7世紀 扶南(フナン)の港町「オケオ」から、ローマ時代の金貨や銀貨やインドの仏像・神像・中国の青銅でできた鏡などが出土された。

・これらの品々は、ローマ⇔インド⇔中国間の貿易が行われ「オケオ」が、その中継地点として役割を持っていたことを示している。

・出土した発掘品は、現在ホーチミン市のベトナム歴史博物館で見ることができる。


カンボジア情報   「★真臘国 (しんろうこく)の登場」 

■真臘国の登場 (550年~802年)の登場

・扶南(フナン)が栄えていた6世紀ころ、メコン中流に(現在のカンボジア北部)に真臘(しんろう)という国が生まれた。
クメール語を話すクメール人の国である。

・真臘は、60年ほど扶南(フナン)の属国として暮らしていたが、扶南(フナン)の国力が衰えると扶南(フナン)を倒し、扶南(フナン)の領土と人々と文化を吸収して、クメール人による最初の国家をつくった。(613年)

・都をイシャーナプラ(現在のサンボーブレイ・クック)に置いた。

・681年、2代目国王の死後、王位を巡り混乱が起こり706年ごろ「北の真臘と南の真臘」に分離した。

・その後、774年ごろからジャワ王国(インドネシア)の侵略がはじまり、国力の衰えた真臘は、802年滅んだ。



カンボジア情報   「★アンコール王朝の登場」 

アンコール王朝の創設 (302年~1431年)

・ジャワ王国に支配され真臘国は、滅亡したが王国の末えであるクメール人の「ジャヤヴァルマン2世」が、802年アンコーのプノン・クレーンの山頂で王として即位してアンコール王朝を創始した。

・王は戦いを繰り広げ、ジャワ王国を排除し勢力を拡張した。

クメールアンコール王朝の誕生である。

・その後、アンコール王朝は、ベトナム南部のチャンパ王国やタイなど周囲の勢力との攻防を繰り返しつつ、インドシナ半島に強大な勢力を築いた。


■王朝内部で幾度も王位争奪を繰り広げながら、王が代わるたびに都と護国寺院の建設と大規模な治水、灌漑用の貯水池「バライ」を次々に築造した。

・さらに主要な街道の宿駅や医療施設なども整えインフラの整備が進んだことで社会の統治が安定し、流通や交易も活発化して、アンコール王朝は大いに繁栄した。

・それが建築や彫刻に代表される壮麗なクメール文化が花開く背景となる。


   アンコールワット


■なかでも、12世紀初めに即位した「スーリヤヴァルマン2世王」は、周囲の諸王国とも激しく交戦して領土を大きく拡張した。

・アンコールに新都を建設して、その中心に護国寺院として30年間以上の歳月をかけてアンコール・ワットを建設した。

・また「ジャヤヴァルマン7世王」の治世には、マレー半島やミャンマーにまでも領土を拡大し、まさしくアンコール王朝は、繁栄の頂点を極めた。

◆ヒンドゥー教国から仏教国へ
・ ジャヤヴァルマン7世王は仏教に帰依し、とくに観音菩薩を篤く信仰した。

・そのため、仏教中心の統治思想を取り入れ造営した新都アンコール・トムやその中央寺院バイヨンなどには「観音菩薩」の多数造形が見られる。


■アンコール王朝の衰亡 (1431年)

・ジャヤヴァルマン7世王の死後、アンコール王朝の安寧は続いていたが領土は次第に縮小した。

・さらに周囲の諸王国が勢力を伸ばし、アンコール王朝はそれらの勢力との攻防に追わる。

・14世紀になると、タイのアユタヤ王朝の度重なる侵攻にさらされた。

・アンコールは、荒廃が進み15世紀初めには王が戦死した。
・1431年、支配者層はついにアンコールの地を放棄した

・約600年間26代にわたるアンコール王朝はここに滅亡した。

・しかし、そこで生み出されたクメール文化は、
・現代の世界中の人々を驚かせ魅了し続ける遺跡として現代によみがえっている。

2019/04/11 (記) Ouxito  

  



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