-縄文人4の音声-

・さて、縄文文化について、いろいろ述べてきたが本論に入りたい。

・本論とは、北海道の先住民は「アイヌ民族」と勘違いしていたことで、縄文人について調べてきた。
・北海道の先住民族は、本州と同じ縄文人たちであった。

・旧石器時代から縄文時代までの日本列島は、北海道から沖縄までほぼ同じ縄文文化の世界だった。
しかし、約2,500年前にはじまった弥生時代からは、日本列島は3つの異なる文化が進行する。

・北海道の「北の縄文文化」、本州・四国・九州の「弥生文化」、そして南西諸島の「南西文化」の3つに区分される。


・本州・四国・九州が水稲農業を行い「農耕社会」になったのに対して、北海道は、昔と同じ「狩猟採集」を行い、縄文人たちが生活を続けていたが、やがて「擦文(さつもん)文化」へと発展していった。

・北海道の縄文時代は長い、その為、周辺の異民族の人々との交流が行われていたと思われる。
・道東にはオホーック人やコリャーク人、道北にはアイヌ人、そして樺太のギリヤーク人たちの人々が少数暮らしていて、縄文人たちと平和的に共存していた。

・縄文人たちは、異民族の文化や東北から渡ってきた縄文人たちの影響を受け、北海道独自の縄文文化(擦文文化)を持った。
・そのことは、当時の遺跡の多くの出土品からわかる。


・鎌倉時代の13世紀始め頃、北海道の縄文人たちが突然いなくなった。
・残ったのはアイヌ民族だけである。オホーック人もギリヤーク人もいなくなった。

・疫病か又は、本州の弥生人たちにより抹殺されたのかと考えたが、そうではない。

・本州の弥生人たち(和人)は、米のとれない北海道には興味を示さず津軽海峡を北上しなかった。
・もし疫病ならば、当然アイヌの人々もいなくなったはずだ。

・どうしてなのだろう?。・・・結論を述べます。
・アイヌの人々に抹殺されたのです。

・アムール河流域に住んでいた「アイヌ民族」が、モンゴル帝国の侵入で、戦火を逃れ沿海州・樺太を経由し集団で北海道に逃れてきます。

・モンゴル帝国の沿海州支配後も、現地のアイヌの人々は長期間に渡り戦いを繰り返していた。
・その為、北海道への渡来の波は、何回かに分けてあったと思います。


・アジア大陸では、この時代モンゴル帝国が西から東まで勢力を拡大し、東の沿海州も勢力圏内に治めた。

・アムール河下流域から沿海州、樺太にかけての地域に居住していた「ギリヤーク人」や北方の「骨嵬人(クイ)や亦里于人(イリウ)」たちを攻撃した。

・1263年、モンゴル帝国の軍人シデ(碩徳)によりアムール河流域と沿海州は征服されたと記録がある。

・温厚な「ギリヤーク人」と違い、好戦的な「骨嵬人(クイ)や亦里于人(イリウ)」たちは、その後も反撃を繰り返して樺太に逃れたが、モンゴル帝国は樺太まで侵入して追撃したようだ。

『元史』「世祖本紀」から  

・この追撃を受けた「骨嵬人(クイ)や亦里于人(イリウ)」たちがアイヌ人たちといわれている。

・アムール河周辺で狩猟生活をしていたアイヌ系の人々は、モンゴルの追撃を逃れ、樺太に渡るも追撃され、北海道に集団で移動したと思われる。


・戦火を逃れて移動してきたアイヌの人々と昔から居たアイヌの人々は、その後北海道で勢力を拡大し「北海道アイヌ民族」として生活を始めた。

・しかし、北海道は大きい島といえ、狩猟採取には「テリトリー」が必要です。

・狩猟民族であったアイヌの人々は、同じ「狩猟採取」文化を持つ先住者、縄文人の「テリトリー」を獲得するため、闘争を繰り返しその住地域を北海道全域に広げた。

・その頃、道東にいた「オホーック文化」人たちが突然消えたのは、「アイヌ民族」との争いに敗れて消えたと考えられるし、その後に北海道の縄文人たちが、消えた時期とも一致している。戦闘闘争期間は、約50~60年ほどであったと考える。


・続縄文文化とは=
・続縄文時代(ぞくじょうもんじだい)とは、北海道を中心に紀元前3世紀頃から紀元後7世紀(弥生時代から古墳時代)にかけて、擦文文化が現れるまで続いた北海道の縄文時代。

・擦文文化とは=
・擦文時代(さつもんじだい)とは、7世紀ごろから13世紀(飛鳥時代から鎌倉時代後半)にかけて北海道で栄えた縄文時代。
・北海道に住んでいた異民族の道具や本州の縄文人が渡来して畑の耕作やなべ型の擦文式土器・鉄器類で生活をしていた時代。

・オホーツク文化とは=
・5世紀から13世紀頃(約800年間)、オホーツク海沿岸を中心に、サハリン南部から道北・道東海岸や南千島の海岸部に栄えた海洋型漁猟民族の文化。
・五角形や六角形の大きな竪穴式住居で生活をし、グジラやアザラシ・オットセイを捕りながら生活をする海の狩猟文化をもっていた。



・このアイヌ民族の侵略説は、日本の学会では支持されていない。
・北海道縄文人の末栄(まつえ)が「アイヌ民族」であるという説が一般的である。

・しかし、素人の私でもその学説には、違和感を覚える。
・どうして、このような歴史観になったのか。

・間違った歴史観のため、私は北海道の先住民族は「アイヌ民族」と思い込まされていたし、多くの日本人もそう思い込まされている。



1.アイヌ人と縄文人は体型が異なる。
・縄文人は、小柄な体型をしているが、アイヌの人は白人系同様、大柄な人が多い。

2.話す言葉がまったく違う。
・アイヌの人々が話すアイヌ語は和語と異なり和語では表記できない。
・アイヌ語は、独特の発音と意味を持っている言語である。

3.居住形式がまったく異なる。
・縄文人たちの住まいは縦穴式住居型ですが、アイヌの住まいは、沿海州の人々と同じ組み立て造り。

4.縄文人とアイヌ人のDNAが異なっている。
・縄文人のゲノム解析やY染色体ハプログループの分析で縄文人とアイヌ民族とは、明確に別人であることが現在わかっている。

5.アイヌ民族は、戦いに優れている民族。
・アイヌ神謠集の「ユウカラ」には、戦う英雄の歌が多い。
・アイヌ人たちは縄文人たちとは違い、戦い方を知っている民族です。
・縄文人たちは「毒弓」などは使ったことがないが、アイヌ人たちは「毒弓」を多く用いる。

・江戸時代の「シャクシャインの戦い」を見てもわかるようにアンヌ民族はすぐれた戦闘力を持っている人々です。

・いろいろ考えても、素人の私でも縄文人の末栄(まつえ)が「アイヌ民族」とは考えられない。

・12世紀末~13世紀始めの半世紀ほどの間に北海道の縄文人約2万人が突如として姿が消え、北海道が「アイヌ」の狩猟採取民族で統一されたのは、やはり、アイヌ民族による縄文人の淘汰(抹殺)であると考えた方がつじつまがあう。

・1万数千年続いた日本の縄文文化は、この北海道の縄文人の消滅で終わった。

・侵入民族「アイヌ」民族を敵視しているわけではない。異民族による「ジェノサイド」は、人間の歴史では珍しいことではないからだ。

・日本人は、縄文人を土台に色々な民族の血が混ざった民族であることがわかっただけでよいが、最後の縄文人たちが、消滅した歴史的背景は、多くの日本人が理解しておかねばならないことだと思う。

・歴史の真実は「タイムトラベル」でしか明らかにされないが、考古学的手法や現代科学の手法を用いるとある程度垣間見ることができる。

・しかし、人間の持つ「直感」も大切な手法の一つでもある。

・私のように、北海道の先住民族は「アイヌ民族」だと思わないために。

  



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