★「藪 の 中」  芥川龍之介 

  藪の中 芥川龍之介

検非違使に問われたる木樵りの物語

●さようでございます。
あの死骸を見つけたのは、わたしに違いございません。
わたしは今朝いつもの通り、裏山の杉を伐りに参りました。
すると山陰の藪の中に、あの死骸があったのでございます。

あった処でございますか?
それは山科の駅路からは、四五町ほど隔たって居りましょう。
竹の中に痩せ杉の交った、人気のない所でございます。

●死骸は縹の水干に、都風のさび烏帽子をかぶったまま、仰向けに倒れて居りました。
何しろ一刀とは申すものの、胸もとの突き傷でございますから、死骸のまわりの竹の落葉は、蘇芳に滲みたようでございます。
いえ、血はもう流れては居りません。
傷口も乾かわいて居ったようでございます。
おまけにそこには、馬蠅が一匹、わたしの足音も聞えないように、べったり食いついて居りましたっけ。

●太刀か何かは見えなかったか?
 いえ、何もございません。
ただその側の杉の根がたに、縄が一筋落ちて居りました。
それから、――そうそう、縄のほかにも櫛が一つございました。
死骸のまわりにあったものは、この二つぎりでございます。
が、草や竹の落葉は、一面に踏み荒されて居りましたから、きっとあの男は殺される前に、よほど手痛い働きでも致したのに違いございません。
何、馬はいなかったか?
 あそこは一体馬なぞには、はいれない所でございます。
何しろ馬の通う路とは、藪一つ隔たって居りますから。

検非違使に問われたる旅法師の物語

●あの死骸の男には、確かに昨日遇あって居ります。
昨日の、――さあ、午頃でございましょう。
場所は関山から山科へ、参ろうと云う途中でございます。
あの男は馬に乗った女と一しょに、関山の方へ歩いて参りました。
女は牟子を垂れて居りましたから、顔はわたしにはわかりません。
見えたのはただ萩重ねらしい、衣の色ばかりでございます。
馬は月毛の、――確か法師髪の馬のようでございました。
丈でございますか? 

丈は四寸もございましたか?
 何しろ沙門の事でございますから、その辺ははっきり存じません。
男は、――いえ、太刀も帯びて居れば、弓矢も携えて居りました。
殊に黒い塗り箙へ、二十あまり征矢さしたのは、ただ今でもはっきり覚えて居ります。
 あの男がかようになろうとは、夢にも思わずに居りましたが、真に人間の命なぞは、如露亦如電に違いございません。
やれやれ、何とも申しようのない、気の毒な事を致しました。

検非違使に問われたる放免の物語

●わたしが搦め取った男でございますか?
 これは確かに多襄丸と云う、名高い盗人でございます。
もっともわたしが搦め取った時には、馬から落ちたのでございましょう、
粟田口の石橋の上に、うんうん呻って居りました。

時刻でございますか?
 時刻は昨夜の初更頃でございます。
いつぞやわたしが捉え損じた時にも、やはりこの紺の水干に、打出しの太刀を佩いて居りました。
ただ今はそのほかにも御覧の通り、弓矢の類さえ携えて居ります。
さようでございますか?
 あの死骸の男が持っていたのも、
――では人殺しを働いたのは、この多襄丸に違いございません。
革を巻いた弓、黒塗りの箙、鷹の羽の征矢が十七本、
――これは皆、あの男が持っていたものでございましょう。
はい。馬もおっしゃる通り、法師髪の月毛でございます。
その畜生に落されるとは、何かの因縁に違いございません。
それは石橋の少し先に、長い端綱を引いたまま、路ばたの青芒を食って居りました。

●この多襄丸と云うやつは、洛中に徘徊する盗人の中でも、女好きのやつでございます。
昨年の秋鳥部寺の賓頭盧の後の山に、物詣でに来たらしい女房が一人、
女の童と一しょに殺されていたのは、こいつの仕業だとか申して居りました。
その月毛に乗っていた女も、こいつがあの男を殺したとなれば、
どこへどうしたかわかりません。
差出でがましゅうございますが、それも御詮議下さいまし。

検非違使に問われたる媼の物語

●はい、あの死骸は手前の娘が、片附かたづいた男でございます。
が、都のものではございません。若狭わかさの国府こくふの侍でございます。
名は金沢かなざわの武弘、年は二十六歳でございました。
いえ、優しい気立きだてでございますから、遺恨いこんなぞ受ける筈はございません。
 娘でございますか?
 娘の名は真砂まさご、年は十九歳でございます。
これは男にも劣らぬくらい、勝気の女でございますが、まだ一度も武弘のほかには、男を持った事はございません。
顔は色の浅黒い、左の眼尻めじりに黒子ほくろのある、小さい瓜実顔うりざねがおでございます。

●武弘は昨日きのう娘と一しょに、若狭へ立ったのでございますが、こんな事になりますとは、何と云う因果でございましょう。
しかし娘はどうなりましたやら、壻むこの事はあきらめましても、これだけは心配でなりません。
どうかこの姥うばが一生のお願いでございますから、たとい草木くさきを分けましても、娘の行方ゆくえをお尋ね下さいまし。何に致せ憎いのは、その多襄丸たじょうまるとか何とか申す、盗人ぬすびとのやつでございます。
壻ばかりか、娘までも………(跡は泣き入りて言葉なし)

       ×          ×          ×

多襄丸の白状

●あの男を殺したのはわたしです。
しかし女は殺しはしません。
ではどこへ行ったのか?
 それはわたしにもわからないのです。まあ、お待ちなさい。
いくら拷問にかけられても、知らない事は申されますまい。
その上わたしもこうなれば、卑怯な隠し立てはしないつもりです。

●わたしは昨日きのうの午ひる少し過ぎ、あの夫婦に出会いました。
その時風の吹いた拍子に、牟子の垂絹が上ったものですから、ちらりと女の顔が見えたのです。
ちらりと、
――見えたと思う瞬間には、もう見えなくなったのですが、一つにはそのためもあったのでしょう、わたしにはあの女の顔が、女菩薩のように見えたのです。
わたしはその咄嗟の間に、たとい男は殺しても、女は奪おうと決心しました。
 何、男を殺すなぞは、あなた方の思っているように、大した事ではありません。
どうせ女を奪うとなれば、必ず、男は殺されるのです。
ただわたしは殺す時に、腰の太刀を使うのですが、あなた方は太刀は使わない、ただ権力で殺す、金で殺す、どうかするとおためごかしの言葉だけでも殺すでしょう。
なるほど血は流れない、男は立派に生きている、
――しかしそれでも殺したのです。
罪の深さを考えて見れば、あなた方が悪いか、わたしが悪いか、どちらが悪いかわかりません。(皮肉なる微笑)

●しかし男を殺さずとも、女を奪う事が出来れば、別に不足はない訳です。
いや、その時の心もちでは、出来るだけ男を殺さずに、女を奪おうと決心したのです。
が、あの山科の駅路では、とてもそんな事は出来ません。
そこでわたしは山の中へ、あの夫婦をつれこむ工夫をしました。

●これも造作はありません。
わたしはあの夫婦と途づれになると、向うの山には古塚がある、この古塚を発いて見たら、鏡や太刀が沢山出た、わたしは誰も知らないように、山の陰の藪の中へ、そう云う物を埋めてある、もし望み手があるならば、どれでも安い値に売り渡したい、
――と云う話をしたのです。
男はいつかわたしの話に、だんだん心を動かし始めました。
それから、――どうです。
欲と云うものは恐しいではありませんか?
それから半時もたたない内に、あの夫婦はわたしと一しょに、山路やまみちへ馬を向けていたのです。

●わたしは藪の前へ来ると、宝はこの中に埋めてある、見に来てくれと云いました。
男は欲に渇いていますから、異存のある筈はありません。
が、女は馬も下りずに、待っていると云うのです。
またあの藪の茂っているのを見ては、そう云うのも無理はありますまい。
わたしはこれも実を云えば、思う壺にはまったのですから、女一人を残したまま、男と藪の中へはいりました。

●藪はしばらくの間は竹ばかりです。
が、半町ほど行った処に、やや開いた杉むらがある、
――わたしの仕事を仕遂げるのには、これほど都合の好い場所はありません。
わたしは藪を押し分けながら、宝は杉の下に埋めてあると、もっともらしい嘘をつきました。
男はわたしにそう云われると、もう痩せ杉が透いて見える方へ、
一生懸命に進んで行きます。
その内に竹が疎らになると、何本も杉が並んでいる、
――わたしはそこへ来るが早いか、いきなり相手を組み伏せました。
男も太刀を佩いているだけに、力は相当にあったようですが、不意を打たれてはたまりません。
たちまち一本の杉の根がたへ、括くくりつけられてしまいました。
縄ですか?
 縄は盗人の有難さに、いつ塀を越えるかわかりませんから、ちゃんと腰につけていたのです。
勿論声を出させないためにも、竹の落葉を頬張らせれば、ほかに面倒はありません。

●わたしは男を片附けてしまうと、今度はまた女の所へ、男が急病を起したらしいから、見に来てくれと云いに行きました。
これも図星に当ったのは、申し上げるまでもありますまい。
女は市女笠を脱いだまま、わたしに手をとられながら、藪の奥へはいって来ました。
ところがそこへ来て見ると、男は杉の根に縛られている、
――女はそれを一目見るなり、いつのまに懐から出していたか、きらりと小刀さすがを引き抜きました。
わたしはまだ今までに、あのくらい気性の烈しい女は、一人も見た事がありません。
もしその時でも油断していたらば、一突きに脾腹を突かれたでしょう。
いや、それは身を躱したところが、無二無三に斬り立てられる内には、どんな怪我も仕兼ねなかったのです。
が、わたしも多襄丸まるですから、どうにかこうにか太刀も抜かずに、とうとう小刀さすがを打ち落しました。
いくら気の勝った女でも、得物がなければ仕方がありません。
わたしはとうとう思い通り、男の命は取らずとも、女を手に入れる事は出来たのです。

●男の命は取らずとも、――そうです。わたしはその上にも、男を殺すつもりはなかったのです。
所が泣き伏した女を後に、藪の外へ逃げようとすると、女は突然わたしの腕へ、気違いのように縋りつきました。
しかも切れ切れに叫ぶのを聞けば、あなたが死ぬか夫が死ぬか、どちらか一人死んでくれ、二人の男に恥を見せるのは、死ぬよりもつらいと云うのです。
いや、その内どちらにしろ、生き残った男につれ添いたい、――そうも喘ぎ喘ぎ云うのです。
わたしはその時猛然と、男を殺したい気になりました。(陰鬱なる興奮)

●こんな事を申し上げると、きっとわたしはあなた方より残酷な人間に見えるでしょう。
しかしそれはあなた方が、あの女の顔を見ないからです。
殊にその一瞬間の、燃えるような瞳を見ないからです。
わたしは女と眼を合せた時、たとい神鳴に打ち殺されても、この女を妻にしたいと思いました。
妻にしたい、
――わたしの念頭にあったのは、ただこう云う一事だけです。
これはあなた方の思うように、卑しい色欲ではありません。
もしその時色欲のほかに、何も望みがなかったとすれば、わたしは女を蹴倒しても、きっと逃げてしまったでしょう。
男もそうすればわたしの太刀に、血を塗る事にはならなかったのです。
が、薄暗い藪の中に、じっと女の顔を見た刹那、わたしは男を殺さない限り、ここは去るまいと覚悟しました。

●しかし男を殺すにしても、卑怯な殺し方はしたくありません。
わたしは男の縄を解いた上、太刀打ちをしろと云いました。(杉の根がたに落ちていたのは、その時捨て忘れた縄なのです。)
男は血相を変えたまま、太い太刀を引き抜きました。
と思うと口も利かずに、憤然とわたしへ飛びかかりました。
――その太刀打ちがどうなったかは、申し上げるまでもありますまい。
わたしの太刀は二十三合目に、相手の胸を貫きました。
二十三合目に、――どうかそれを忘れずに下さい。
わたしは今でもこの事だけは、感心だと思っているのです。
わたしと二十合斬り結んだものは、天下にあの男一人だけですから。(快活なる微笑)

●わたしは男が倒れると同時に、血に染まった刀を下げたなり、女の方を振り返りました。すると、――どうです、あの女はどこにもいないではありませんか? 
わたしは女がどちらへ逃げたか、杉むらの間を探して見ました。
が、竹の落葉の上には、それらしい跡も残っていません。また耳を澄ませて見ても、聞えるのはただ男の喉に、断末魔の音がするだけです。

●事によるとあの女は、わたしが太刀打を始めるが早いか、人の助けでも呼ぶために、藪をくぐって逃げたのかも知れない。
――わたしはそう考えると、今度はわたしの命ですから、太刀や弓矢を奪ったなり、すぐにまたもとの山路やまみちへ出ました。
そこにはまだ女の馬が、静かに草を食っています。
その後の事は申し上げるだけ、無用の口数に過ぎますまい。
ただ、都へはいる前に、太刀だけはもう手放していました。
――わたしの白状はこれだけです。
どうせ一度は樗の梢に、懸ける首と思っていますから、
どうか極刑に遇わせて下さい。(昂然こうぜんたる態度)

清水寺に来れる女の懺悔

 ――その紺の水干を着た男は、わたしを手ごめにしてしまうと、縛られた夫を眺めながら、嘲るように笑いました。
夫はどんなに無念だったでしょう。
が、いくら身悶をしても、体中にかかった縄目は、一層ひしひしと食い入るだけです。
わたしは思わず夫の側へ、転ぶように走り寄りました。
いえ、走り寄ろうとしたのです。
しかし男は咄嗟の間に、わたしをそこへ蹴倒しました。
ちょうどその途端です。
わたしは夫の眼の中に、何とも云いようのない輝きが、宿っているのを覚りました。
何とも云いようのない、
――わたしはあの眼を思い出すと、今でも身震いが出ずにはいられません。
口さえ一言も利けない夫は、その刹那の眼の中に、一切の心を伝えたのです。
しかしそこに閃いていたのは、怒りでもなければ悲しみでもない、
――ただわたしを蔑んだ、冷たい光だったではありませんか?
 わたしは男に蹴られたよりも、その眼の色に打たれたように、我知らず何か叫んだぎり、とうとう気を失ってしまいました。

●その内にやっと気がついて見ると、あの紺の水干の男は、もうどこかへ行っていました。
跡にはただ杉の根がたに、夫が縛られているだけです。
わたしは竹の落葉の上に、やっと体を起したなり、夫の顔を見守りました。
が、夫の眼の色は、少しもさっきと変りません。
やはり冷たい蔑みの底に、憎しみの色を見せているのです。
恥しさ、悲しさ、腹立たしさ、
――その時のわたしの心の中は、何と云えば好いかわかりません。
わたしはよろよろ立ち上りながら、夫の側へ近寄りました。
「あなた。もうこうなった上は、あなたと御一しょには居られません。
わたしは一思いに死ぬ覚悟です。
しかし、――しかしあなたもお死になすって下さい。
あなたはわたしの恥を御覧になりました。
わたしはこのままあなた一人、お残し申す訳には参りません。」

●わたしは一生懸命に、これだけの事を云いました。
それでも夫は忌わしそうに、わたしを見つめているばかりなのです。
わたしは裂けそうな胸を抑えながら、夫の太刀を探しました。
が、あの盗人に奪われたのでしょう、太刀は勿論弓矢さえも、藪の中には見当りません。
しかし幸い小刀だけは、わたしの足もとに落ちているのです。
わたしはその小刀を振り上げると、もう一度夫にこう云いました。
「ではお命を頂かせて下さい。わたしもすぐにお供します。」

●夫はこの言葉を聞いた時、やっと唇を動かしました。
勿論口には笹の落葉が、一ぱいにつまっていますから、声は少しも聞えません。
が、わたしはそれを見ると、たちまちその言葉を覚りました。
夫はわたしを蔑んだまま、「殺せ。」と一言ひとこと云ったのです。
わたしはほとんど、夢うつつの内に、夫の縹の水干の胸へ、ずぶりと小刀を刺し通しました。

●わたしはまたこの時も、気を失ってしまったのでしょう。
やっとあたりを見まわした時には、夫はもう縛られたまま、とうに息が絶えていました。その蒼ざめた顔の上には、竹に交った杉むらの空から、西日が一すじ落ちているのです。
わたしは泣き声を呑みながら、死骸の縄を解き捨てました。
そうして、
――そうしてわたしがどうなったか?
 それだけはもうわたしには、申し上げる力もありません。
とにかくわたしはどうしても、死に切る力がなかったのです。
小刀を喉に突き立てたり、山の裾の池へ身を投げたり、いろいろな事もして見ましたが、死に切れずにこうしている限り、これも自慢にはなりますまい。(寂しき微笑)
わたしのように腑甲斐ないものは、大慈大悲の観世音菩薩も、お見放しなすったものかも知れません。
しかし夫を殺したわたしは、盗人の手ごめに遇ったわたしは、一体どうすれば好よいのでしょう?
 一体わたしは、――わたしは、――(突然烈しき歔欷)

巫女の口を借りたる死霊の物語

●――盗人は妻を手ごめにすると、そこへ腰を下したまま、いろいろ妻を慰め出した。
おれは勿論口は利けない。
体も杉の根に縛られている。
が、おれはその間に、
何度も妻へ目くばせをした。
この男の云う事を真に受けるな、何を云っても嘘と思え、
――おれはそんな意味を伝えたいと思った。
しかし妻は悄然と笹の落葉に坐ったなり、じっと膝へ目をやっている。
それがどうも盗人の言葉に、聞き入っているように見えるではないか?
 おれは妬しさに身悶えをした。
が、盗人はそれからそれへと、巧妙に話を進めている。
一度でも肌身を汚したとなれば、夫との仲も折り合うまい。
そんな夫に連れ添っているより、自分の妻になる気はないか?
 自分はいとしいと思えばこそ、大それた真似も働いたのだ、
――盗人はとうとう大胆にも、そう云う話さえ持ち出した。

●盗人にこう云われると、妻はうっとりと顔を擡げた。
おれはまだあの時ほど、美しい妻を見た事がない。
しかしその美しい妻は、現在縛られたおれを前に、何と盗人に返事をしたか?
 おれは中有に迷っていても、妻の返事を思い出すごとに、嗔恚に燃えなかったためしはない。
妻は確かにこう云った、
――「ではどこへでもつれて行って下さい。」(長き沈黙)

●妻の罪はそれだけではない。
それだけならばこの闇の中に、いまほどおれも苦しみはしまい。
しかし妻は夢のように、盗人に手をとられながら、藪の外へ行こうとすると、たちまち顔色を失ったなり、杉の根のおれを指さした。
「あの人を殺して下さい。わたしはあの人が生きていては、あなたと一しょにはいられません。」
――妻は気が狂ったように、何度もこう叫び立てた。
「あの人を殺して下さい。」
――この言葉は嵐のように、今でも遠い闇の底へ、まっ逆様おれを吹き落そうとする。
一度でもこのくらい憎むべき言葉が、人間の口を出た事があろうか?
 一度でもこのくらい呪のろわしい言葉が、人間の耳に触れた事があろうか?
 一度でもこのくらい、
――(突然迸るごとき嘲笑)
その言葉を聞いた時は、盗人さえ色を失ってしまった。
「あの人を殺して下さい。」
――妻はそう叫びながら、盗人の腕に縋っている。
盗人はじっと妻を見たまま、殺すとも殺さぬとも返事をしない。
――と思うか思わない内に、妻は竹の落葉の上へ、ただ一蹴りに蹴倒された、(再ふたたび迸るごとき嘲笑)
盗人は静かに両腕を組むと、おれの姿へ眼をやった。
「あの女はどうするつもりだ? 殺すか、それとも助けてやるか?
 返事はただ頷けば好い。殺すか?」
――おれはこの言葉だけでも、盗人の罪は赦してやりたい。(再び、長き沈黙)

●妻はおれがためらう内に、何か一声叫ぶが早いか、たちまち藪の奥へ走り出した。
盗人も咄嗟に飛びかかったが、これは袖さえ捉えなかったらしい。
おれはただ幻のように、そう云う景色を眺めていた。

●盗人は妻が逃げ去った後、太刀や弓矢を取り上げると、一箇所だけおれの縄なわを切った。
「今度はおれの身の上だ。」
――おれは盗人が藪の外へ、姿を隠してしまう時に、こう呟いたのを覚えている。
その跡はどこも静かだった。
いや、まだ誰かの泣く声がする。おれは縄を解きながら、じっと耳を澄ませて見た。
が、その声も気がついて見れば、
おれ自身の泣いている声だったではないか? (三度、長き沈黙)

●おれはやっと杉の根から、疲れ果てた体を起した。
おれの前には妻が落した、小刀が一つ光っている。
おれはそれを手にとると、一突きにおれの胸へ刺した。
何か腥い塊がおれの口へこみ上げて来る。
が、苦しみは少しもない。
ただ胸が冷たくなると、一層あたりがしんとしてしまった。
ああ、何と云う静かさだろう。
この山陰の藪の空には、小鳥一羽囀りに来ない。
ただ杉や竹の杪に、寂しい日影が漂っている。
日影が、――それも次第に薄れて来る。
――もう杉や竹も見えない。
おれはそこに倒れたまま、深い静かさに包まれている。

●その時誰か忍び足に、おれの側へ来たものがある。
おれはそちらを見ようとした。
が、おれのまわりには、いつか薄闇が立ちこめている。
誰か、――その誰かは見えない手に、そっと胸の小刀がを抜いた。
同時におれの口の中には、もう一度血潮が溢れて来る。
おれはそれぎり永久に、中有の闇へ沈んでしまった。………
                             (大正十年十二月)






底本:「芥川龍之介全集4」ちくま文庫、筑摩書房
   1987(昭和62)年1月27日第1刷発行
   1996(平成8)年7月15日第8刷発行
底本の親本:「筑摩全集類聚版芥川龍之介全集」筑摩書房
   1971(昭和46)年3月~1971(昭和46)年11月
初出:「新潮」  1922(大正11)年1月
   青空文庫作成ファイル:

2019/02/08 記 大仁